昭和54年02月01日 月例祭
寒修行も、もう後二、三、四と、もう三日間になりました、皆さん一生懸命の寒修行があっとります、御遠方の方達もやはりそれに合わして何かの形で、まぁ修行に取り組んでおられると思うですけれども、参ろうと思えば参られる、参加しようと思えば参加できるという方達が沢山まだおられます、もうあと三日間でもひとつ寒修行の雰囲気を頂かれたら有り難い。信心に修行は付き物、その修行にお徳が頂けれる、そのお徳におかげが付いてくるというおかげでないと、本当のおかげになりません。
修行におかげに付き物という時もあります、ね、お参りを一生懸命お願いをするでおかげを頂きますけれども、とにかく修行に力が頂かれる、お徳が頂かれる、そのお徳に付き物のおかげでないと、いわば私共が願って止まない限りないおかげにはなりません。今日はめずらしいお供えがしてございました、あのお野菜と一緒に盛り合わせてあったあの、先日大分の方がお供えなさったんですが、鴨がお供えになった。
鴨がネギを背負ってくるとという事を申しますですね、今日のはまさしく後の方へ、まぁそんなつもりで盛られた訳じゃないでしょうけれども、後の方に大きなネギがバーッとこう盛ってあって、その前ににがごりがいっぱい、そしてあの鴨がそれに止まっとるようにして盛ってございましたでしょう、ね、あのお野菜と一緒にあれは鴨でした、鴨がまさしくネギを背負ってきておる。
これはちょっと、ふが良いとかふが良すぎると、ね、まるきりこれはお前、鴨が葱背負って出来ちょって来たごたるじゃないかと言う様な時に使われるんですけれども、私は信心で頂くおかげと言うのは、ね、それこそいつも申しますように、夢にも思わなかったおかげが、いうならば、ふの良いことの連続という、おかげが頂けれるのが信心だとこう思うです、信心の徳を受けて、ね、力を受けて頂けれるおかげ、しかもそれはもう限りない、ね、もうどれだけ頂いていいか分からない、私の心の中にはこの頃、ね。
世界総氏子身の上安全と言う様な祈り願いを持っておりますけれども、最近ではもう天地いっぱいの事が祈らせて頂けれるおかげを頂いております、それは私共では分かりません、天地の事は人間の眼をもって知るって知りがたき事ばっかりなのですけれども、天地と地球、人間の住んでおる世界というものの関わり合いというものを思えば思うほど、やはり天地の清まりを願わずにはおられないのが、最近の私の誇り。
ですから心の中にまぁ、もう嫌がうえにも、広がりに広がりに広がって行く夢がございます、ね。それが一つ一つ、こうして実現していく。今日はお一日でもございましたから、朝からお広前がいっぱい賑わいました、もう夕方まで、私共四名の先生方が、ズーッとお取次をし、もうお届け帳にその、四人の先生方で、お取次をさせて頂かなならん事でした、まぁ九州全県は言うにおよばず、四国、山口あたりからも、今日は、お参りがあっておりました。
ですからやっぱりお供えもそういう、そのところから珍しいお供え物がいっぱいお供えがあっております、ね。大きなスイカのお供えがあっております、あれは宮崎からでしょう、今朝から朝早う、朝の御祈念に参加した、宮崎から参って来る夫婦の方たちが、もうあの、にがごりをたくさんお供えしてあった、今ごろ珍しい、ね、もう様々な、いうならば夢にも思わなかったようなおかげが、今合楽のお広前には日々、それこそ、不思議の連続というか。
今日、宮崎の延岡の田中先生がお届けをされます、もう本当に日々が奇跡の連続でございますというお届けをなさいました、ね、合楽の場合もそうです、もう本当に不思議な、まぁこげんふの良か事があるじゃろうかと言う様な事が毎日毎日こう続いておる、かと言うてそのなら、そのまぁ嬉しい楽しいという事ばぁっかりという事じゃない、昨日なんか私、朝のお食事の時にいつも西日本新聞がまいります、もう一番はじめにこう今日の運勢というところを神様にお願いしてある。
ですから私のトラ年の生まれの者の何かが書いてある。昨日は足元から鳥が飛び立つような思いをする日と書いてあった、もう昨日は本当にそういう一日でした、もう本当にもうそれこそビックリ仰天するような一日でした、もう内容が申し上げられませんけれども本当にそういうお取次ぎをさせて頂く時に、ね、それこそ信心する者はこれから後どのような事が起こって来ても驚いてはならんぞと仰せられる、ね、それに一々驚いておったんでは信心頂いておる値打ちはない、そういう時にです、ね。
どっこいと、自分の心の中に受け止めさせて頂けれるような修行が、常日頃できておらねばならないという事でございます。たとえば竿秤(ちきり)を、ね、重たい物をドンと打つ竿がピンと上がってしまう、これではいけない、竿を握っておいて分銅をこうやってそこに持って、ね、目盛をこう変えますと、ちきりの竿はいつもこう水平を保っておる。 どういうとそれこそ、ビックリせにゃおられないような事が例えば起こっても金光様とこう念ずるひと時はございますけども。
ちきりがそこへ持ってこられると、ね、これをおかげにせずにはおかん、ね。猪を撃ちに山へ登った人が向こうから猪がやってきた、はぁたまがったち言うちから逃げとったら猪撃ちは出けんじゃない、ね、猪撃ちゃぁその、それこそ猪が出てくる事を待ち構えておる、だからその猪を射止めることも出来るようなものです、ですから信心の稽古はね、そこへんのところを大事にせにゃきゃならん、それには、ならどういう信心をさせて頂いたら良いかと言うと、心行だと今朝の御理解に頂いております。
心行はいつも自分の心にかけさせて頂けれる心行なんです。今日はあの、研修の時に、今朝の御理解をまとめて、信心はいつも、ね、白真剣な真剣勝負のようなものだと言うて書いとる人がありました、だからとても信心というのがその白刃の矢をこうやって交えた真剣勝負をしておるような気持ちばっかりじゃぁとてもやりきれませんよね人間は、ね、けれどもいつ真剣勝負を望まれても、それに応と答えられる信心じゃなからなければならない、というてまぁ訂正した事でした。ね。
確かに真剣さがいりますけれども、いつもかつもが真剣勝負と言った様な物じゃありません、ね、何時なら真剣勝負をなら挑まれてもです、それに応と答えられるところの姿勢がなからなけりゃいけない。お道の信心、いや特に合楽の信心は成り行きを尊ぶとか大事にするとか、また成り行きを願っていくという、その事に言わば尽きるというても良いくらいですから、これは私どもが力を頂いて行くために、お徳を頂いて行くために、それこそ夢にも思わなかったようなおかげの展開を願って。
言うなら無尽蔵、限りないおかげに言うならば、挑戦していくという信心の姿勢であります。ね、この事だけが成就すりゃ良いと、言った様なもんじゃない、それにはね、そういう言うならば、絶えず自分の心の中に心行が続けていかなければなりません。しかもそういう信心の修行をさせて頂くという事が、楽しゅうなってくる、有難うなってくる、しかもそれが軽快なひとつのリズムともなってくる、そのリズムに乗っての生き方でなからなければならない。
先ほどお月次祭が始まるちょっと前に、久留米の稲垣さんがお届けをなさっておられた、昨日はご主人が東京出張をなさる、だからまぁ6時頃までは帰らなければならない、ところが昨日に限って御理解がちょっと長かった、もう時間はますます迫ってくる、途中で立とうかと思ったけれども、その日の御理解が無念残念という御理解であった、普通では、歯がゆい事ちゃなぁと言う時に無念とか残念とかとこう申します、ね、けれども昨日の御理解は、無念という事は自分の思いを無くするという事。
思いを残してはならないという事、言うなら我情我欲を離してということである、自分の思いを外してということである、そういうご理解を頂いておる時でしたから、はぁこここそ無念にならなければならないと思うて御理解の終るまで、それから帰らせて頂いたらもう6時、十五分も過ぎておった。ところがようやく主人が起きておられるところを、はぁそれからお食事お弁当を作って準備が出来るところへ、まぁ連れの方からお電話が掛かってきてから、只今から発ちますと言う様な。
もう万事に御都合お繰り合わせを頂いたという話なのですけれども、これは中々できないのです、それだけのことですけれども。どうでしょうか、皆さんの場合、これは帰って主人にやかましゅう怒らるんならどんこん出けんと、まぁ今日はちょっとご無礼してから、まぁ御理解頂き残してから立とうと、ね、そういう時にです、どっこいと自分の心を定めるという事、いうならば念を残さないという事、ね。
念を空しゅうする思いを空しゅうする、そして自分の心をただ一心に神様へ向ける、これはもう日常生活の中に様々なことに現れて参ります。言うならばそこにはすでに人間心を捨てきった姿があるだけであります、ね、そこに神様と合楽し合える一体になれれるところの手立てができるんです、中々出来ませんよ、それだけの事ですけれども、ね、それが出けるようになると神様の働きのその微妙さに只々驚くばかりである。
そういう、信心の稽古をだんだん続けさせて頂く、ね。それが例えば、信心が薄かったり無かったりするときには、無念に思うたり、残念に思うたリする、そしていよいよ無念で、残念でたまらんと言う様な、結果しか生まれてこない。ね。その無念残念を、ね、念を空しゅうして、神様へ向かう心だけにしていくと、言う様な信心をさせてもらわなければならん。
昨日私はご承知のように、ここに沢山お水類を頂きます。もうこちら下がりますと冷蔵庫に、もうジュースがいっぱい入れてございますから、もうあの、頂くんですけれども。私は初めてあの、みかんジュースというのを、この味わって喉の渇きから、まぁギュ―ッとこう飲むばっかり、これはね、ところが味わって飲んだら、こんなに細かい味があるなぁという事を、昨日わからせて頂いた。
私はだいたい酒屋ですから、酒を味をこう、塩梅をしますね、いわゆる利き酒を致します時には、必ず舌の上にのせて、そしてそれをすすって飲む、まず香りを、そして味を舌の上にしばらくのせて、そしてそれを啜ってみますと、そのさまざまな味が、良い味は良い味です、悪い味は悪い味が、ハッキリ舌の上に出てくるんです。ね、ですから私は思うんですけれどもね、合楽で皆さんがご理解を頂かれる、その御理解をひとつ味わって頂かなければならない。
はぁ今日の御理解は有り難かったというて、こっちに抜けてしまったんじゃ詰まらん、あぁいうあの御理解の中身というか、の新味というものを、ひとつ味あわせてもろうて、ね、またそれを行じて、体験の上でも味おうていくという味わい、だからこそ信心は有り難くなる楽しくなるのです。ね、有り難くなり楽しくなり、そうしていわゆる力を頂いていくお徳を頂いていく、そして願いが成就するのではない、神様の願いが成就していく、ね、願いが願どおりになったおかげは、ほんなもんじゃない、ね。
右と願えば左、左と願えば右と言った様な時こそ、神様の願いが成就しておる時だと言われます、神様の願いが成就しておる、そこんところをいよいよ大切にさせてもらう、先ほど上野先生が前講を勤めておりました、ね、いわゆるもろうた水には限りがある、ね、湧き出るまでが信心辛抱という、何か今度の福引、正月の福引にそれを引き当てたという話をしておりましたですね。
たしかに貰うた水には限りがある、湧き出る迄が信心辛抱、その信心辛抱も只歯を食いしばって辛抱するのじゃない、楽しい事じゃなぁ有り難い事だなと、ね、そこには神と一体になる手立てを工夫しながら、ね、合楽し合うそこから限りなく生み出されて行く所のおかげを頂いていくと言う事、ね。私は今日のあのお供えものを見せて頂いておって、もう本当に、もうそれこそ全国津々浦々の珍しいものが集まっておる、ね。
もう本当に、まぁ言うなら夢にも思わなかったようなおかげが、いま合楽では展開されておる、そういうおかげを、言うなら皆も頂いて貰いたい、ね。ハッピーエンドに終わる、ね、又は今日始めに申しますように、ね、鴨がネギ背負ってくると言った様な事がそんなに何時もあるものではない、という風に思うておる、だからハッピーエンドに終わる例えば映画なんかは、こう程度が低いと言った様に申します、金光教でもそう言う様な、いうなら傾向があります。
おかげをおかげと言う、おかげ話ではどうも信心が、程度が低い、ね、だから信心を語れと、と言うて何時も難行をしよると言った様な事ではいけません。そりゃぁ難儀な所も大事にしていかなければなりませんけれども、合楽ではその難儀をしておる所をです、言うたら貰うた水には限りがあると悟らせて貰うて、いよいよ湧き出るまでの信心辛抱を、その間をいうならば大事に楽しゅうさせて頂こうと言うのであります。
今年の修行も後、2、3日です、ね。そういう例えば修行の中身と言う様なものがです、ね、本当に有り難いもんだなぁと分かってこなければいけんのです。ね、久留米の佐田さん一家が、もう十数年間、一家を上げて朝参りをなさる、ちょうど寒修行の時に、一月だけひとつ、おばあちゃんお参りしようじゃないのと言うて、あのおばあちゃんが言いだれたから、ね、もう亡くなられました。それから、なら寒修行の間その時分な50日間じゃった、その50日間を一生懸命でお参りなさってから、ね。
言うならば修行の中身が分かってきた、言うならば味わいが分かってきた、もう十一年間つづいております、ね、そしてもう本当に、まぁ言うならば、ね、合楽の小型のようなおかげを受けておられます。もうどんなにこうこう言うてもね、ただ5と5と足せば10になると言った様なおかげじゃない、それこそ5、5、25と言う様なおかげの展開になってくるんです、ね、いわゆるそこの信心辛抱の味わいを、言うならばわからせてもらう、しかも楽しゅう有り難う、ね。
しかもそれがあの世までも繋がっていくというおかげなんです。先だってからテレビを私ども修行生もみんな一同で見せてもらいました、天台宗のお坊さんが千日修行を終えられたという、その模様をテレビで写しておりました。もう本当にですね、もうその千の持経、それを終わって仏様へこうやって合掌しておられる姿が写真に出られましたが、もう本当にこの世の人とは思われない、もう本当に生仏様としか思えないように、もう言うなら悪が抜けきってしまわれる訳でしょうね。
けれどもこれは誰でもは出きんですね、ね、できる。そりゃぁ人がした事っちゃ出けん事はなかろう、けれどもこれには限界がある、もうここまでだと言うことです。ちょうどその写真の後に、十年前にやっぱりその修行をなさったというお坊さんも一緒に出て説明をしておられました、ところがそのお坊さんの顔を見よると、もう俗人に返っておられるという感じでした、お話しぶりといい、様子といい、ね。
だからそういう修行をしておる時だけはもう生仏様であっても、またいうならば俗に帰れば俗人に返ってしまうというような事では詰まりません、もう金光教の信心修行の一番すばらしいのは、このへんのところです、此の方の行は、ね、心行だと、ね、家業の行だと仰る。その家業の行に徹する、ね、心行に徹底する、荒行よりは心行をせよと仰るから、その心行に徹底するという生き方、ね。
私共は表行もやはり修行の内だと思うておりましたから過去においては致しました、様々な修行も致しましたけれども、現在合楽では修行しておる先生方が表行に取り組むという事をこう全廃しております、ね、それでも表行をすると言うならもう波紋だとさえ厳しく言ってるように、いうなら心行に、言うなら徹底させて頂いておるというのが、今の合楽の信心です。
この信心はだから、教団全体の者がそういう気になっていかなきゃならない、ね、たとえばもう人間のね限界を、というものはもう、なら昨日天台宗のお坊さんのように、もうあれが人間の限界なんです、ね、だからおかげもそこにやっぱり限界があるのです。ね、その修行を止めたらまた元の族に返ってしまうと言った様なものではない、一生あの世までも持ち続けていけられるところの心行、魂での行なのです。だから無尽蔵に限りなくそのおかげを頂いて行けれるというのが御道の信心です。
ですからもうこれは心行、ね、ところが心行というのは中々もって、言うならば、神様を本当に信じて疑わないというところまでの心行を頂かなければ中々できん、誤魔化しが、ね、誰もどう言い手がない、自分の心ひとつで、信心の言うならば修行の味わいを味わえれるところまで、信心心行が出けていかなければならない。ね、ですからそこまではお互いが今日の上野先生じゃないけども信心辛抱であります。ね、そういう信心が身に付いた時に、それこそ湧き出るほどしのおかげとなってくるのです。
そういう信心修行に取り組ませて頂く、ね、一つのスポーツなんかは、まぁ人間の限界に挑むのが私はスポーツだと思うですね、なら高飛びをするね、はぁもうビックリした高いとこを飛びますわいね、けどもそれよりその倍もちゃとても出けませんもん、ならいっちょこの家ば飛び越してなさいち言うたっちゃ出けんもんね、人形使いでなからにゃね、ところが心行は、今日の御理解で頂きますと、それこそ天下を股にかけて、ね、世界中を言うならば股にかけて心の中に頂きながらの行が出来るんです。ね。
言うならば限りないおかげに繋がるためには、限りなく進めていけれる心行に取り組まなければならないという事です、合楽で今おかげを頂いておるのは、私はそれだと思うです。それこそ毎日毎日が、鴨がネギを背負ってくるほどしのおかげ、ね、こげなふの良かこつがあるじゃろうかと、普通で言うような連続である、ね、そのなら中身と言うてもです、なら場合には足元から鳥が飛び立つように。
普通で言うならビックリするような事があるけれども、日頃頂いておる信心、いわゆる真剣勝負じゃない、いつ真剣勝負を求められてもドッコイとそれを受けて止められるところの信心が出来ておる、言うならば分銅をちょっとこうやれば、水平である、上がらんで済むだけの信心の稽古をしておかなければならないという事、ね。限りない言うならばおかげへの挑戦と言えるでしょう、そのためには限りなく進めていけれる心行にいよいよ徹していかなければならないという事でございます。
どうぞ。